space space space space space space space space
HOME
コラム

義政公と銀閣寺

 銀閣寺とは通称であり、正しくは東山慈照寺といいます。室町幕府足利八代将軍義政公によって造営された山荘東山殿がそのルーツです。義政公の没後、臨済禅宗の寺院となり義政公の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。銀閣寺の名の由来は江戸時代、三代将軍義満公の造営による山荘北山殿の金閣寺(鹿苑寺)に対し、銀閣寺と称せられることとなりました。
 義政公は9歳にして足利将軍家の家督を継ぎ、15歳にして征夷大将軍の座につきました。図らずも若くして権力の頂点を極めた義政公は、権謀術数がうごめく政治の世界から退き、隠栖生活を過ごすべく山荘造営を発案しました。その山荘が、ここにいう東山殿です。
 義政公はその生涯を東山殿の造営に託しました。8年の歳月を費やし、自らの美意識のすべてを投影。東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げたのです。美の求道者ともいえる義政公の精神のドラマを500年をへた現代にも脈々と伝えています。



伊藤若冲ゆかりの地 大本山相国寺

 江戸時代の中期の相国寺は、伝統ある禅宗文化の拠点として多くの人々を魅き付けました。その代表が、奇才の画家として知られる伊藤若冲です。
 若冲は、世俗をすてて禅宗に深く帰依する宗教人でもあり、相国寺の住持大典和尚と深い交遊関係を結んでいました。その関係から若冲は、相国寺・金閣寺・銀閣寺に伝来する中国や日本の古画に親しく接する機会に恵まれました。文正筆「鳴鶴図」に触発された作品を複数制作したのも、こうした縁があったればこそでありました。さらに若冲は、相国寺に「動植綵絵」30幅(現在、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)と「釈迦三尊像」3幅対を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けました。
 現在、「釈迦三尊像」3幅対のうち「文殊菩薩像」「普賢菩薩像」は相国寺で毎年6月17日に厳修される観音懺法会にあたって、伝吉山明兆筆「白衣観音像」の両側に掛けられています。

HOME